名前はない夜に 時間について
こうしてベッドの上でただただ時間の空費にうつつを抜かしているだけの夜の時間は
普段は気づかないような自分の些細な醜い内面 嫌な意思、過去現在未来への抱く必要のない感情と向き合わざるをえなくなり、どうしてもキツくなる。
「学生最後の夏休み」とか この間の「平成最後の〇〇」とかかそんな括りに囚われて
なにか特別なことをしたり気張ったり必要は全くないですよね。なぜなら、いつだって今この瞬間は完全に一度きりで 取り戻すことなんて不可能なのだから
「#最後の〇〇」とかいう、誰かが決めた表面的な時間の区切りでしかないものに対して、
テンションを変に高めるような商業的な文字面に踊らされているうちは、時間を自分のものとして保有できていない証拠なのだろうね。
私たちは時間の海に溺れてはいけない。
自分の基準で決めた時間の区切り方、使い方、愛し方を
徹底していかなければ、と思う。
気を抜いていては、いつだって私たちの指の間を水みたいにすり抜け溢れていくものなのだ。時間とは
気付いた時には全て終わっているものなのだ。
いつでも、今この瞬間は、絶対的に最後で 一度きり 全ての選択は1回勝負であるのに、
この生活、そしてその変わらない生活の中でなにかを常に選択していくことが、際限なく続いてしまうと錯覚してしまうのは、時間に騙されているということ。
時間が刻々と流れていることは
全てが刻々と変化している ということ。
寿命が縮み、あの人の心は変わり、
かつて掲げた理想も変わり、
あの時は確かに真実だったはずの言葉は嘘になる。
時間が不断に流れ続ける限り、
絶対なんてない。だからこそ
時間の測り方、費やし方を 自分で支配して
人生をやっていかないと どうにもこうにも、
うまくいかないのだろう。
どうなることをうまくいったと定義して、
どうなることをしくじったと定義するかさえ、
どの時を軸にするかで変わるだろうから
もうこの世は時間という概念がある限り、
あやはやすぎて 真実なんてない気がしてき、さらに気が滅入る。
私は私の人生時間を
なんとか手懐けて、どこからくるかわからない鬱に苦しむ今夜みたいな時間を 微笑ましく俯瞰できるくらいの余裕を手に入れたい、と思う。
こんな風に なにもかもに疑心暗鬼になってしまうのは、今が暗くて蒸し暑い沈黙の夜だからで、思考がそれに引っ張られ、たまたまやってきた時間に対する絶望と焦燥に傾倒しているからで、眩しい朝になったら、この感覚を忘れてしまっていても、それならそれでいいのだけど
時間は常に世界をすっぽりと包んで流れ 全てを変化させるから。